今日、12月16日でモーム没後50年を迎えます。日本の新聞に病院に運ばれる弱々しい姿が出たのを記憶しています。今と違い、当時は91歳まで生きる人はごく稀でしたから、彼の長寿に驚く人はいても、逝去を嘆く人はいなかったと思います。彼は1874年生まれ、私は1931年生まれですから、私は彼の同時代人だとは言えませんが、それでも、1959年の来日時に生身のモームを見た人は、もう珍しくなっています。数少ない生き証人の一人だということになりましょうか。
1951年春の大学入学時にふとした偶然で、まだ翻訳が半分までしか出ていなかった『人間の絆』を原文で読んで、心底から魅了されて以来、彼を愛読し、研究し、翻訳し、講義する歳月が続いて来ました。数えてみれば、60年を越えています。大学で英米文学を教える立場上、モーム一辺倒というわけには行かず、シェイクスピアは勿論、コンラッド、ジェイムズ、ロレンス、フォースター、ハックスレー、ウォー、ロバートソン・デイヴィスなどの英米加作家も勉強しました。とりわけ、ハックスレーの後期における精神革命、ジェイムズの精緻な心理探究には長く関心を持ち、研究し翻訳紹介もしました。さらに白状すれば、モームが、人間も人生も一部しか見ていない皮相な作家に思えて、しばらく避けた時期さえありました。
しかし今振り返ってみれば、いくら他の作家と「浮気」をしても、また必ずモームに戻って来ました。自分が他のどの作家にもましてモームにもっとも魅力を覚え、感銘を受けてきたと認めざるをえません。彼が人間、人生について言ったことに多くの真実がある、という確信が、年々深まってきました。3.11東日本大震災の時のことです。テレビで見ていて、一番心に迫ったのは、追いかけてくる津波から逃れようと、大きな荷物を背負って走っている老婆が、もう一歩のところで津波に呑み込まれてしまう場面です。「ああ、モームの言った通りだ! お婆さんにはお気の毒だけど、人生とはすべてはかなく、無意味なのだ!」と思わず心の中でつぶやきました。
モームの小説であれ短編であれ、劇作であれ評論であれ、数点読んだ人なら「地球上に生物が誕生してから無限の時間が経つ。人類史は悠久の地球史から見ればごく短い。いわんや、人の一生などは一瞬であり、いくら楽しみ悩もうと一瞬のことだ。取るに足らぬ。生まれてこようと、生まれまいと、大した意味はない。生も無意味なら、死も無意味だ」という、モームの人生、人間についての基本的な考えに対決させられることでしょう。
モームは自分の不幸や苦しみだけでなく、他人の不幸に敏感でして、自分自身の不幸のように感じます。そのような時、今引用したように考えるのであれば、どうにか不幸を受けいれられるのです。悲しみの苦痛から逃れるのは、このように考えるしかないのです。
ここ数年、私はモームを読書の大きな喜びを与えてくれる作家としてだけでなく、自分の大事な人生の師あるいは先達として、感じる自分に気付くようになりました。押しつけがましい態度の師匠は嫌ですが、この師匠は自分の考えに絶対的な自信など持たず、自分も弱い人間に過ぎないと謙虚に思っている人です。人間臭いのです。ほんの一例ですが、短編「雨」の宣教師に対しても、軽蔑、非難を浴びせるのみでなく、ひょっとすれば自分でも同じように振る舞いかねない、という慎み深い態度を取っているのです。
1965年12月16日未明、ニースのアングロ・アメリカン病院の病室で、衰弱し切ったモームは、死の直前に若い綺麗なイギリス人の看護婦に一緒にベッドに入って欲しい、と頼んだそうです。「決して性的なものではありませんでした」と看護婦が語った、と伝記作家セリーナ・ヘイスチング女史は伝えています。私が思うに、8歳の時死別し、一生慕い続けた母にこの世の最期にもう一度抱かれたいと思っての嘆願だったに違いないでしょう。91歳の老人でありながら多少性的な要素が混入していても大目に見て欲しいです。人間ですから。そういう、人にも自分にも弱さを認めそれを是認するモームに私は共感します。没後50年に当たって、敬愛する先達について最近感じていることを率直に述べてみました。
日本モーム協会会長 行方 昭夫