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2015年 12月 16日
この内容をダウンロードしたい方は [1874年] 1月25日、父ロバート・モーム(在仏英国大使館顧問弁護士、51歳)と母イーディス(社交界の花形、33歳)との間に4人兄弟の末っ子としてパリで生まれる。両親は「歳の差婚」(18歳差)で「美女と野獣」と言われていた。 [1882年(8歳)] 母が41歳で肺結核により死亡。 [1884年(10歳)] 父が61歳で胃癌により死亡。父方の叔父ヘンリー・マクドナルド・モーム(イギリス・ケント州ウィットスタブルの牧師)に引き取られ、カンタベリーのキングズ・スクール付属小学校に入学。叔母は優しい人であったが、叔父は俗物であった。この頃から吃音が始まり、一生悩むことになる。 [1885年(11歳)] キングズ・スクールに入学。フランス語訛りの英語と吃音のためいじめにあうが、中等部から高等部に進学する頃には優等生になる。 [1888年(14歳)] 肺結核に感染していることが分かり、休学して南仏に転地療養する。 [1889年(15歳)] 健康を取り戻して帰国し、復学するが、オックスフォードに進学させて聖職に就かせようとする叔父の反対を押し切ってキングズ・スクールを退学。 [1890年(16歳)] 南仏を再訪した後、ドイツ生まれの叔母の勧めでハイデルベルクに遊学。正式の学生にはならなかったが、ハイデルベルク大学に出入りして講義を聴講し、学生たちと交際する。年長の青年ブルックスと同性愛を経験。 [1892年(18歳)] 秘かに作家になろうと決意して帰国。ロンドンの法律事務所に特許会計士見習いとして勤めるが失敗に終わる。ロンドンの聖トマス病院付属医学校に入学。 [1894年(20歳)] 復活祭の休みを利用してブルックスを訪ね、初めてイタリアを旅行。 [1895年(21歳)] 初めてカプリを訪ね、その後もしばしば同地を訪れる。 [1897年(23歳)] インターン時代の経験を基に、貧民街ランベスのアイドル的存在の娘の恋を描いた処女作『ランベスのライザ』(“Liza of Lambeth”)が出版され、一応の成功を収める。聖トマス病院付属医学校を卒業し、医師免許を取得するが、文学で身を立てようと決心し、憧れの国スペインを旅行する。その後も毎年のように同国を訪れる。 [1898年(24歳)] 長編『ある聖者の半生』(“The Making of a Saint”)出版。スペインからイタリアまで足を伸ばす。 [1899年(25歳)] 最初の短編『ドン・セバスティアンの礼儀』("The Punctiliousness of Don Sebastian")を収めた処女短編集『指針』(“Orientations”)出版。 [1901年(27歳)] 長編『英雄』(“The Hero”)出版。この本から「亀甲マーク」を使用。 [1902年(28歳)] 長編『クラドック夫人』(“Mrs. Craddock”)出版。1898年に執筆してロンドンでは上演されることのなかった1幕劇『男女の仲は神のみぞ知る』("Marriages Are Made in Heaven")をドイツ語に翻訳した『難破』("Schiffbrüchig")がベルリンで上演される。モームの芝居の初めての公演であったが、小さなキャバレー・シアターで8回しか上演されなかった。 [1903年(29歳)] 戯曲『高潔な人』(“A Man of Honour”)がロンドンで上演されるが、2日間で打ち切られる。 [1904年(30歳)] 長編『回転木馬』(“The Merry-Go-Round”)出版。 [1905年(31歳)] パリに長期滞在し、芸術家志望の青年たちと交際する。 [1906年(32歳)] ギリシャとエジプトに旅行。若い女優スー・ジョーンズと知り合い、親密な関係が8年間続くことになる。長編『主教の前垂れ』(“The Bishop's Apron”)出版。 [1907年(33歳)] 1903年に執筆して上演されることのなかった『フレデリック夫人』(“Lady Frederick”)がロンドンでほんのつなぎに上演される。予想外の大成功で、1年以上にわたり、422回も続演されることになる。 [1908年(34歳)] 『フレデリック夫人』に続いて『ジャック・ストロー』(“Jack Straw”)、『ドット夫人』(“Mrs. Dot”)、『探険家』(“The Explorer”)が上演される。4つの芝居が同時に上演されてヒットしたことにより、一躍劇壇の寵児となり、社交界の名士となる。生まれ年の同じウィンストン・チャーチルとも知り合い、生涯の友となる(没年も同じ)。長編『探険家』(“The Explorer”)、『魔術師』(“The Magician”)出版。『フレデリック夫人』がニューヨークでも上演され、大好評を博す。これを機に、モームの芝居は英米で上演されるようになり、いずれもヒットする。 [1909年(35歳)] 戯曲『ペネロペ』(“Penelope”)、『スミス』(“Smith”)上演。この年から毎年のようにイタリアを訪問。 [1910年(36歳)] 戯曲『10人目の男』(“The Tenth Man”)、『地主』(“Landed Gentry”)上演。初めてアメリカを訪問し、名士として歓迎される。 [1911年(37歳)] 戯曲『パンと魚』(“Loaves and Fishes”)上演。 [1912年(38歳)] 作家として、人間としての心のわだかまりを吐き出すために、劇作を絶って自伝的小説『人間の絆』(“Of Human Bondage”)の執筆を始める。 [1913年(39歳)] スーに求婚するが、断られる。夫と別居中のシリー・ウェルカムと知り合う。戯曲『約束の地』(“The Land of Promise”)上演。 [1914年(40歳)] シリーと親密な関係になる。『人間の絆』脱稿。第1次世界大戦勃発。野戦病院隊を志願してフランス戦線に出る。後に秘書兼パートナーとなる22歳の青年ジェラルド・ハックストンと出会い、親密な関係になる。情報部勤務に転じ、ジュネーヴを拠点に諜報活動に従事しながら劇作を再開。 [1915年(41歳)] 『人間の絆』が出版されるが、あまり評判にならなかった。シリーがモームの子供(女児)を出産し、処女作のヒロインにちなんでライザと名付ける。モーム原作の初めての映画『探険家』("The Explorer")がアメリカで公開される。 [1916年(42歳)] 戯曲『手の届かぬもの』(“The Unattainable”)が『キャロライン』("Caroline")のタイトルで上演される。モームを共同被告人(妻の不倫相手)としてシリーの夫が起こしていた離婚裁判の審理が始まり出廷。肺結核に罹り、静養を兼ねてアメリカに行き、正式に秘書としたジェラルド・ハックストンと共に南海諸島まで足を伸ばす。タヒチ島で長編『月と六ペンス』(“The Moon and Sixpence”)の材料を集める。 [1917年(43歳)] 戯曲『おえら方』(“Our Betters”)がニューヨークで上演される。1915年に執筆したものの、ロンドンの社交界に入ろうとする富裕なアメリカ人を風刺する内容が反米的だという理由により、イギリスでは当局から上演禁止命令が出ていた。観客の怒りを買ったが、評判となり、興行的には成功。離婚が成立したシリーと正式に結婚するが最初から不仲。諜報員として秘密工作の目的で革命下のロシアに潜入するが、失敗に終わる。肺結核が悪化し、スコットランドのサナトリウムに入院。 [1918年(44歳)] 退院後、『月と六ペンス』の執筆を始め、南英サリー州の邸で家族と過ごしながら脱稿。再入院。第1次大戦終戦。 [1919年(45歳)] 退院後、シカゴ、アメリカ中西部を観光してカリフォルニアに行き、さらにハワイ、サモア、マレー、中国、ジャワなどを旅行。『月と六ペンス』が出版されてベストセラーになり、『人間の絆』も読まれ始める。戯曲『シーザーの妻』(“Caesar's Wife”)、『家庭と美人』(“Home and Beauty”、アメリカでは『夫が多すぎて』("Too Many Husbands"))上演。 [1920年(46歳)] 中国を旅行。戯曲『知られざるもの』(“The Unknown”)上演。短編集『一葉の震え』(“The Trembling of a Leaf”)のゲラを受け取りに行ったニューヨークで、劇作家ジョン・コルトンからその中の1編『ミス・トムソン』("Miss Thompson")の舞台化の許可を求められるが、モームはあまり期待していなかったため、コルトンの言いなりの条件で承諾。 [1921年(47歳)] 『ミス・トムソン』を掲載した雑誌が出版されて大評判になり、コルトンの脚本の上演権に非常な高値がつく。タイトルを『雨』("Rain")に変えて『一葉の震え』出版。戯曲『ひとめぐり』(“The Circle”)が上演され、上演回数180回を超える大成功。この年から10年間に、極東、アメリカ、近東、ヨーロッパ諸国、北アフリカなどを次々と旅行。 [1922年(48歳)] コルトンの脚本による芝居『雨』が驚異的な大ヒットとなる。中国旅行記『中国の屏風』(“On a Chinese Screen”)出版。戯曲『スエズの東』(“East of Suez”)上演。翌年にかけてボルネオ、マレー旅行。ボルネオの川で高潮に襲われるが、九死に一生を得る。 [1923年(49歳)] ロンドンで『おえら方』が上演され、上演回数は548回にも上った。 [1925年(51歳)] 長編『五彩のヴェール』(“The Painted Veil”)出版。 [1926年(52歳)] 短編集『カジュアリーナ・トリー』(“The Casuarina Tree”)出版。戯曲『コンスタント・ワイフ』("The Constant Wife")上演。南仏リヴィエラ・フェラ岬(Cap Ferrat)に私邸「モレスク邸」を購入し、改築を始める。 [1927年(53歳)] 戯曲『手紙』(“The Letter”)上演。妻シリーと離婚手続き開始。シリーと別居し、改築の終わった「モレスク邸」に居を定める。 [1928年(54歳)] 後に2代目秘書兼パートナーとなる23歳のアラン・サールと出会う。諜報活動の経験を基にした短編集『アシェンデン』(“Ashenden, Or The British Agent”)出版。戯曲『聖火』("The Sacred Flame")上演。これ以降の4作は、演劇界引退を覚悟した上で、観客の受けを意識せずに、もっぱら自分の書きたいものを書いた。 [1929年(55歳)] 妻シリーと正式に離婚。 [1930年(56歳)] ボルネオ・マレー半島旅行記『客室の紳士』(“The Gentleman in the Parlour”)、長編『お菓子とビール』(“Cakes and Ale”)出版。戯曲『働き手』("The Breadwinner")上演。 [1931年(57歳)] 短編集『一人称単数』(“Six Stories Written in the First Person Singular”)出版。 [1932年(58歳)] 長編『片隅の人生』(“The Narrow Corner”)出版。戯曲『報いられたもの』("For Services Rendered")上演。 [1933年(59歳)] 短編集『アー・キン』(“Ah King”)出版。モーム最後の戯曲『シェピー』("Sheppey")上演。これをもって30作を超える芝居を物した劇壇を去る。スペインに絵画を見に行く。 [1935年(61歳)] スペイン旅行記『ドン・フェルナンドの酒場で』(“Don Fernando”)出版。 [1936年(62歳)] 一人娘ライザの結婚式に出席し、娘夫婦に家を贈る。短編集『コスモポリタンズ』(“Cosmopolitans”)出版。 [1937年(63歳)] [1938年(64歳)] 自伝的エッセイ『サミング・アップ』(“The Summing Up”)出版。モーム原作の初めてのTVドラマ『稼ぎ手』("The Breadwinner")がイギリスで放送される。 [1939年(65歳)] 長編『クリスマスの休暇』(“Christmas Holiday”)出版。モームが英米独仏露の短編100編を選んで解題を書いた『世界100物語』(“Tellers of Tales”)出版。「モレスク邸」で悠々自適の生活を送っていたが、第2次世界大戦が勃発し、英国情報省の依頼で2度にわたり戦時下のフランス国内を広く視察。フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章(L'ordre national de la légion d'honneur)を授かる。 [1940年(66歳)] 評論『読書案内』(“Books and You”)、短編集『処方は前と同じ』("The Mixture as Before")出版。パリ陥落の報を聞き、「モレスク邸」近隣の避難者と共にカンヌから石炭船に乗り、3週間かかってイギリスに到着。英国情報省から宣伝と親善の使命を受けてニューヨークに行き、第2次大戦中はアメリカに滞在することになる。 [1941年(67歳)] 中編『女ごころ』(“Up At the Villa”)出版。 [1942年(68歳)] 長編『夜明け前のひととき』("The Hour before the Dawn")出版。 [1944年(70歳)] 長編『剃刀の刃』(“The Razor's Edge”)出版、ベストセラーに。秘書兼パートナーのジェラルド・ハックストンが不摂生がたたって52歳で死亡。 [1945年(71歳)] 第2次大戦終戦。40歳のアラン・サールが新しい秘書兼パートナーとなる。 [1946年(72歳)] 長編『昔も今も』(“Then and Now”)出版。「モレスク邸」に戻り、修復を始める。「モレスク邸」は、戦時中ドイツ兵に占拠されて英軍の攻撃を受けたり、後に英米軍が駐屯したりして、かなりの修復が必要であった。 [1947年(73歳)] 最後の短編集『環境の動物』(“Creatures of Circumstance”)出版。全9巻の短編集とそれらに収められなかったものを合わせると、モームは120編を超える短編小説を書いた。 [1948年(74歳)] 一人娘ライザの二度目の結婚式に出席。最後の長編『カタリーナ』(“Catalina”)出版。モームは20編の長・中編小説を書いた。自作の短編をオムニバス映画化した脚本『四重奏』("Quartet")出版・映画化。 [1949年(75歳)] 創作ノート『作家の手帳』(“A Writer's Notebook”)出版。 [1950年(76歳)] 『四重奏』の続編として『三重奏』("Trio")出版・映画化。TVシリーズ“Somerset Maugham TV Theatre”の放送がアメリカでスタートし、翌年まで3シーズン47話の内4話にホストとして出演。 [1951年(77歳)] 『四重奏』、『三重奏』の続編として『アンコール』("Encore")出版・映画化。 [1952年(78歳)] オランダへ旅行。オックスフォード大学より名誉学位を授かる。 [1954年(80歳)] 評論『世界の十大小説』(“Ten Novels and Their Authors”)出版。イタリア、スペインを旅行し、ロンドンに飛んでエリザベス女王に謁見、名誉勲位(the Order of the Companion of Honour)を授かる。日本では、新潮社から『サマセット・モーム全集』(全31巻)刊行開始。 [1957年(83歳)] 思い出のハイデルベルクを再訪。 [1958年(84歳)] 評論集『作家の立場から』("Points of View")出版。これをもって60年に及ぶ作家生活に終止符を打つと宣言。 [1959年(85歳)] 極東方面へ旅行。11月に来日し、約1か月滞在。 [1960年(86歳)] TVシリーズ“Somerset Maugham Hour”の放送がイギリスでスタート。3シーズン38話で翌々年まで続く。日本では、英文学界や文壇の著名人を役員として初代「日本モーム協会」が設立され、協会誌『CAP FERRAT』も創刊されたが、活動は1962年に終息。 [1961年(87歳)] 文学勲章位(the Order of the Companion of Literature)を授かる。 [1964年(90歳)] 90歳の誕生日に向けてイギリスの新聞『サンデー・エクスプレス』のインタビューを受けたが、老衰したモームが満足に答えることができなかったため、記者は過去の著作などを参考にしてモームの言葉を書かざるを得なかった。『作家の手帳』の70歳の誕生日を迎えた時の所感から引用して、「時々人生を繰り返したいかと質問されます。全体としてみると、結構よい一生でした。もしかすると大部分の人よりよい一生だったかもしれません。でももう一度繰り返しても無意味です。前に読んだ推理小説を再読するように退屈です。」(行方昭夫訳)と書かれている。存命中最後のモーム原作映画『人間の絆』("Of Human Bondage")が世界各国で公開される。 [1965年(91歳)] 存命中最後のモーム原作TVドラマ『ランベスのライザ』("Liza of Lambeth")がイギリスで放送される。12月16日未明、南仏ニースのアングロ・アメリカン病院で死亡。 [2006年] 5月、日本モーム協会再発足。 [2015年] 12月16日、没後50年。日本では翌年1月1日より著作権フリーに。 (参考) 中村佐喜子訳『作家の手帳』(新潮文庫、1969) John Whitehead編“A Traveller in Romance : Uncollected Writings, 1901-64”(Anthony Blond, 1984) 田中一郎著『秘密諜報員サマセット・モーム』(河出書房新社、1996) Selina Hastings著“The Secret Lives of Somerset Maugham”(John Murray, paperback, 2010) 行方昭夫編『モーム語録』(岩波現代文庫、2010) 行方昭夫著『モームの謎』(岩波現代文庫、2013)
by maughamsociety
| 2015-12-16 00:14
| モームのこと
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